発行・運営
日本建築塗装職人の会
後継者は、自分の代わりではない
事業承継の話になると、先代経営者から、しばしばこのような言葉を聞きます。
「あいつには、まだ任せられない」
「営業ができない」
「人を見る目が足りない」
「現場のことを分かっていない」
「自分がいなければ、会社は回らない」
その心配は、よく分かります。
自分が長い年月をかけて守り、育ててきた会社です。
お客様との信用、社員とその家族の生活、地域で築いてきた評判を、簡単に危険へさらすことはできません。
後継者の経験不足が見えれば、「もう少し成長してから」と考えるのも当然でしょう。
しかし、ここに事業承継の難しさがあります。
後継者が自分と同じようにできる日を待っていたら、その日は永遠に来ないかもしれません。
なぜなら、後継者は先代の代用品ではないからです。
事業承継とは、自分の複製をつくることではありません。
次の時代を担う、別の経営者を育てることなのです。
先代と後継者では、積み重ねてきた経験の量が違います。
先代は、何十年もかけてお客様との関係をつくり、数々の失敗を経験し、社員の性格を知り、難しい現場を乗り越えてきました。
後継者が数年働いただけで、先代と同じように判断できるはずはありません。
それにもかかわらず、先代は無意識に、現在の自分と若い後継者を比べてしまいます。
「自分なら、もっと早く判断できる」
「自分なら、そのお客様にはこう話す」
「自分の若い頃は、もっと必死だった」
しかし、比較するなら、現在の自分ではなく、後継者と同じ年齢だった頃の自分と比べるべきでしょう。
若い頃から、今と同じ判断力があったでしょうか。
一度も失敗せず、人の力を借りず、最初から経営者として完成していたでしょうか。
おそらく、そうではなかったはずです。
多くの失敗を重ね、周囲に助けられ、ときにはお客様や社員から叱られながら、今の経営者になったのではないでしょうか。
自分が経験によって成長したのであれば、後継者にも経験する機会を渡さなければなりません。
先代が営業に強くても、後継者は組織づくりに強いかもしれません。
先代が現場で信頼を得てきた人なら、後継者は情報発信やデジタル化によって、新しい顧客との接点をつくれるかもしれません。
先代は直感で人を動かしてきたが、後継者は制度や仕組みを整えることに長けているかもしれません。
得意なことも、考え方も、人との接し方も違って当然です。
ところが先代は、自分と違う部分を「不足」として見てしまいがちです。
口数が少ないことを、営業力がないと見る。
慎重に考えることを、決断力がないと見る。
社員の意見を聞くことを、指導力が弱いと見る。
新しい制度を導入することを、昔からのやり方を否定されたと感じる。
しかし、先代との違いは、弱点ではなく、次の時代へ適応するための力かもしれません。
会社をつくった時代と、後継者が経営する時代は違います。
働く人の価値観も、お客様の選び方も、必要とされる技術も、情報の伝わり方も変わっていきます。
過去の成功方法を完全に再現できる後継者よりも、これからの時代に必要な経営をつくれる後継者のほうが、会社の未来を守れることもあるのです。
後継者へ仕事を教える先代は多くいます。
現場管理を任せる。
営業を担当させる。
社員教育を任せる。
経理や資金繰りを学ばせる。
これらは、もちろん大切です。
しかし、仕事を任せることと、経営を任せることは同じではありません。
決められた範囲の仕事をするだけでは、経営者には育ちません。
どの事業へ投資するのか。
誰を採用するのか。
どの仕事を断るのか。
利益を何へ使うのか。
社員へどのような未来を示すのか。
答えのない問題に向き合い、自分で決め、その結果を引き受ける。
その経験によって、初めて経営者としての判断力が育ちます。
先代がすべての重要事項を決め、後継者には実行だけを任せている状態で、「まだ経営者として頼りない」と評価するのは酷な話です。
泳げるようになってから水へ入れるのではありません。
安全を確保しながら水へ入り、実際に泳ぐから、泳げるようになるのです。
経営も同じです。
任せられる人になってから権限を渡すのではなく、段階的に権限を渡すことで、任せられる経営者へ育っていきます。
後継者へ任せると、失敗することがあります。
採用した人が定着しない。
新しい商品が売れない。
社員への伝え方を誤る。
設備投資の効果が出ない。
お客様への対応が遅れる。
先代から見れば、「だから言っただろう」と感じるでしょう。
手を出せば防げた失敗かもしれません。
しかし、すべての失敗を先回りして防げば、後継者は判断の結果を経験できません。
人は、正解を教えられただけでは、自分の判断基準を持てるようにならないからです。
大切なのは、失敗を放置することではありません。
会社の存続に関わる致命的な失敗と、成長に必要な小さな失敗を分けることです。
重大な法令違反、安全上の問題、資金繰りを危険にさらす投資などは、先代が止める必要があります。
一方、取り返せる範囲の失敗であれば、見守り、本人に振り返らせ、次の判断へ生かさせる。
失敗の責任まで先代が奪ってしまえば、後継者はいつまでも「自分が会社を背負っている」という感覚を持てません。
後継者を守ることと、後継者の経験を奪うことは違うのです。
事業承継では、先代と後継者の間に意見の違いが生まれます。
後継者は変えたい。
先代は守りたい。
この対立を、「新しい考え」と「古い考え」の争いにしてはいけません。
会社には、時代が変わっても守るべきものと、時代に合わせて変えるべきものがあります。
守るべきものは、会社の理念、仕事に対する誠実さ、お客様との約束、技術への責任、地域で築いてきた信用です。
一方、変えるべきものは、営業方法、社内制度、情報管理、働き方、商品構成、広告媒体などです。
先代が守るべきものまで手放せば、会社はその会社らしさを失います。
反対に、変えるべき方法まで守ろうとすれば、会社は時代から取り残されます。
事業承継で本当に引き継ぐべきものは、昔のやり方そのものではありません。
なぜ、そのやり方を大切にしてきたのかという、奥にある考え方です。
先代は「何を変えてはならないか」を伝え、後継者は「その価値を今の時代にどう実現するか」を考える。
そこに、世代を超えた経営が生まれます。
形式上は社長を交代していても、実際の決定権を先代が持ち続けている会社があります。
社員は重要な相談を先代へ持っていく。
取引先も先代の承認を求める。
後継者が決めたことを、先代があとから覆す。
金融機関との話も、先代だけが進めてしまう。
これでは、後継者は「社長」という肩書を持っているだけです。
社員から見ても、本当の社長が誰なのか分かりません。
後継者の方針に従うべきか、先代の意向を確認すべきか迷い、組織の判断が遅くなります。
権限を譲るということは、後継者の決定を尊重することです。
もちろん、相談されたときには意見を伝えてよいでしょう。
しかし、先代が助言することと、最終決定を奪うことは違います。
後継者の決定が自分の考えと違っても、致命的な問題でなければ、まずやらせてみる。
そして、その結果について一緒に振り返る。
肩書だけでなく、決める権利と結果を引き受ける責任を渡してこそ、本当の承継が始まります。
社長を譲ったあと、先代の役割がなくなるわけではありません。
むしろ、先代にしかできない仕事が残っています。
長年お世話になったお客様との関係をつなぐ。
会社の歴史や失敗を伝える。
後継者が経験していない危険を知らせる。
取引先や金融機関との橋渡しをする。
後継者の手が回らない部分を静かに補う。
ただし、その役割の果たし方は変わります。
前に立って全員を動かす立場から、後ろに立って新しい経営者を支える立場へ移ります。
先代にとって、これは簡単なことではありません。
これまで自分の判断で動いていた会社を、誰かに任せる。
自分なら違う方法を選ぶ場面でも、口を出さずに見守る。
社員がお伺いを立てに来ても、「今の社長に聞いてください」と返す。
経営する力とは別に、譲る力が必要になります。
会社をつくることのできる経営者が、必ずしも会社を譲ることも上手とは限りません。
だからこそ、事業承継は後継者だけの成長課題ではありません。
先代にとっても、新しい役割を学ぶ成長の機会なのです。
先代は、できるだけ良い状態で会社を渡したいと考えます。
借入を減らしてから。
組織を整えてから。
利益を安定させてから。
後継者が十分成長してから。
その思いは誠実なものです。
しかし、すべてを整えてから渡そうとすると、承継の時期は遅れていきます。
そもそも、経営に完成はありません。
市場も人も社会も変わり続けます。
先代が考える完成された会社も、次の時代には変化が必要になります。
後継者へ渡すべきものは、問題のない完成品ではありません。
会社を自分の判断で良くしていく権限と、変化へ向き合う機会です。
若いうちに経営を任されれば、失敗から学ぶ時間があります。
社員とともに会社を変えていく時間があります。
先代が元気なうちであれば、困ったときに助言を受けることもできます。
先代がすべてを抱え、体力や判断力が落ちてから急いで渡すよりも、まだできる時期に譲り、しばらく後ろから支えるほうが、会社にとって安全な場合もあるのです。
先代には、先代にしかつくれなかった会社があります。
厳しい時代を乗り越え、信用を積み重ね、社員とお客様を守ってきた歴史は、後継者が簡単に再現できるものではありません。
同時に、後継者には、後継者にしかつくれない会社があります。
新しい価値観、新しい技術、新しい人間関係を通して、会社を次の時代へつないでいく役割があります。
後継者は、先代の代わりではありません。
先代の仕事を、そのまま続ける人でもありません。
先代から受け取った理念と信用を土台に、自分の時代の責任を引き受ける、もう一人の経営者です。
先代を超えなくてよい。
先代と同じでなくてよい。
ただし、自分の時代から逃げてはならない。
そして先代も、自分と同じ経営者を求めるのではなく、自分とは違う経営者が会社を引き継ぐことを受け入れる。
事業承継とは、過去を完全に再現することではありません。
守るべきものを託し、新しい時代の可能性を信じることです。
後継者へ渡すのは、完成された会社ではありません。
次の時代をつくる権限なのです。
工事店経営の支援に20年以上携わり、これまで700社を超える経営に向き合ってきました。経営、職人育成、建築業界、地域社会の現場で見えてきたことを、親方社長へ向けて発信します。
会社は変わる。
読んで終わりではなく、自社の経営で一つずつ実践する。地域に選ばれ、次の世代へ残る会社づくりを、さらに深く学べます。




